2020年11月09日

令和2年11月7日

令和2年11月7日(土)
子罕第九 仮名論語P.112
o大宰(たいさい)が子貢にたずねていった。――
「孔先生のような人こそ聖人というのでしょう。実に多能であられる」
子貢がこたえた。――
「もとより天意にかなった大徳のお方で、まさに聖人の域に達しておられます。しかも、その上に多能でもあられます」
この問答の話をきかれて、先師はいわれた。――
「大宰はよく私のことを知っておられる。私は若いころには微賤な身分だったので、つまらぬ仕事をいろいろと覚えこんだものだ。しかし、多能だから君子だと思われたのでは赤面する。いったい君子というものの本質が多能ということにあっていいものだろうか。決してそんなことはない」
先師のこの言葉に関連したことで、門人の牢(ろう)も、こんなことをいった。――
「先生は、自分は世に用いられなかったために、諸芸に習熟した、といわれたことがある」(下村湖人『現代訳論語』より)
 四字熟語➜「鄙事多能」(ひじたのう)
 鄙事:取るに足らない些細なこと。 多能:器用であること。
 難しいことをするより、誰にでも出来る簡単なことをきちんとできること。
加藤謙治さんコメント
意無く、必無く、固無く、我無し。吾未だ四を絶つに至らず。吾が身の至らず甘受せり。  謙治
晴耕雨読
神無月 エゴマ取り入れ 喜びし茶会 庭の柿の実 眺めつつ おうす頂く     弘

辛・幸の成り立ち

2020年11月01日

令和2年10月31日

令和2年10月31日(土)
子罕第九 仮名論語P.112
〔読み下し〕
子(し)匡(きよう)に畏(い)す。日(のたま)わく、文(ぶん)王(のう)既(すで)に没(ぼっ)したけれども、文(ぶん)茲(ここ)に在(あ)らずや。天(てん)の将(まさ)に斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし)の者(もの)、斯(こ)の文(ぶん)に与(あずか)るを得(え)ざるなり。天(てん)の未(いま)だ斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさざるや、匡人(きょうひと)其(そ)れ予(われ)を如何(いか)にせん。
〔解説〕
孔子が旅の途中で殺されそうになったことは二度あります。一度目が、かつて匡で乱暴狼藉を働いた陽虎と人違いされて包囲された時(P.89)。二度目は(P.153)一行が衛を去り宋に行った際、宋の軍務大臣司馬桓魋(かんたい)の暗殺計画に巻き込まれて食料を運ぶ道を断たれてしまった時(P.227)。どちらも命からがら生き延びていますが、孔子がジタバタした様子は全く見られません。真に自らの使命を覚った人物とは、ここ迄腹が座っているものなのでしょう。

加藤謙治さんより
「ミイラ展」を見て・・
 ミイラ展 永遠(とわ)の命 願いつつ 慈悲の化身か 即身仏こそ    謙治

〈仮名論語〉
P. 89 子(し)日(のたま)わく、天(てん)徳(とく)を予(われ)に生(しょう)ぜり。桓(かん)魋(たい)其(そ)れ予(われ)を如何(いか)にせん。
天は私に徳を授けられている。桓(かん)魋(たい)ごときが私をどうすることもできない。
P.153 子(し)、匡(きょう)に畏(い)す。顔(がん)淵後(えんおく)れたり。子日(しのたま)わく、吾(われ)女(なんじ)を以(もっ)て死(し)せりと為(な)す。日(いわ)く、子(し)在(いま)す。回(かい)何(なん)ぞ敢(あ)えて死(し)せん。
先生が匡の地で恐ろしい目にあわれたとき、顔(がん)淵(えん)は遅れて追いついた。
先生は「お前が死んだものと思っていたよ」。顔(がん)淵(えん)は「先生がおられますのにどうして死ねましょうか」と言った。
P.227 陳(ちん)に在(いま)して糧(りょう)を絶(た)つ。従者(じゅうしゃ)病(や)みて、能(よ)く興(た)つこと莫(な)し。子(し)路慍(ろうら)み見(まみ)えて日(い)わく、君子(くんし)も亦(また)窮(きゅう)すること有(あ)るか。子(し)日(のたま)わく、君(くん)子固(しもと)より窮(きゅう)す。小(しょう)人窮(じんきゅう)すれば斯(ここ)に濫(みだ)る。

(呉が陳を攻める事件にあったとき) 陳に滞在していたとき、食料が無くなった。お供の人は起き上がることもできない。子路は恨んで腹を立てて、先生に「君子も困ることがありますか」。先生は「君子だって困るさ。だが小人は困ったらすぐにみだれてなにをするかわからないよ」。

2020年10月25日

令和2年10月24日

令和2年10月24日(土)
子罕第九 仮名論語P.111
〔読み下し〕
子(し)四(よつ)を絶(た)つ。意(い)毋(な)く、必(ひつ)毋(な)く、固(こ)毋(な)く、我(が)毋(な)し。
〔通訳〕
孔子は四つの執着を断ち切って、あの円満な性格をつくり上げて行ったのである。四つの執着とは、一に私心、 二に必遂(ひっつい)、 三に頑固、 四に我執がそれである。

〔解説〕
孔子は三十の時に初めて老子に会い、「子の驕気(きょうき)と多欲と態色と淫志(いんし)とを去れ!」と指摘されて以来、自らの性格上の欠点を知る。
・私利私欲から来る「私心」
・何が何でも必ずやり遂げようとする「必遂」
・自分の考えに凝り固まる「頑固」
・我を通そうとする「我執」

孔子は、意毋く→必毋く→固毋く→我毋しと徐々に克服して、何事にも執着しない円満な性格を十年かかってつくり上げたそうです。

カタクリ  私の好きな言葉
・良寛:和顔愛語
・マザーテレサ:誰かに笑顔を見せることは、その人に最高のプレゼントを贈るのと同じ
・お釈迦様:無財の七施で優しい思いやりの言葉で接する、温かい笑顔で接する
・良寛の俳句:顔回が うちものゆかし 瓢(ふくべ)かな

〔無財の七施〕布施行の一つ財産がなくても、人に悦びを与えることはできるという七つの行い。
1.眼施(げんせ): 優しく温かいまなざしで周囲の人々の心を明るくするように努めること
2.和顔悦色施(わげんえっしょくせ):優しい笑顔で人に接すること
3.言辞施(ごんじせ):優しい言葉をかけるように努めること
4.身施(しんせ)=肉体を使って人のため社会のために無料奉仕すること
5.心施(しんせ)=心から感謝の言葉を述べるようにすること
6.床座施(しょうざせ)=場所や席を譲り合う親切のこと
7.房舎施(ぼうしゃせ)=求める人や尋ねて来る人があれば一宿一飯の施しを与えその労をねぎらう親切のこと

2020年10月13日

令和2年10月10日

令和二年十月10日(土)
子罕第九-02 仮名論語P.111  
〔読み下し〕
子(し)日(のたま)わく、麻冕(まべん)は礼(れい)なり。今(いま)や純(いと)なるは倹(けん)なり。吾(われ)は衆(しゅう)に従(したが)わん。下(しも)に拝(はい)するは礼(れい)なり。今(いま)上(かみ)に拝(はい)するは泰(おご)れるなり。衆(しゅう)に違(たが)うと雖(いえど)も、吾(われ)は下(しも)に従(したが)わん。
〔現代語訳〕
先師がいわれた。
「麻の冠をかぶるのが古礼だが、今では絹糸の冠をかぶる風習になった。これは節約のためだ。私はみんなのやり方に従おう。臣下は堂下で君主を拝するのが古礼だが、今では堂上で拝する風習になった。これは臣下の増長だ。私は、みんなのやり方とはちがうが、やはり堂下で拝することにしよう」            
(下村湖人『現代訳論語』)

良寛と論語(良寛;江戸時代中期1758年1月12日〜1831年2月18日寅73才)
良寛は孔子を尊敬して次のような賛をつくっています。
孔子は、何と偉い人であろうこの人を眺めると前にあったかと思う、何時の間にか後にある様なその偉さは計り知れない。その学問たるや努め励んでやまず、温良でつつましく人を擁しておのれをあとにする。孔子以前にこれに比肩する古人なく孔子以後に彼をつぐ人無く,それ故に達巷という村のものはあまり偉大すぎて何がこの人の得意なのかわからないほどであった。
孔子よ孔子よ貴方にはまったく短所が無い、愚かものは彷彿として聖人の室を外からのぞいているばかりである。
孔子『論語』と良寛  安藤英男著 良寛より

トピックス
日本学術会議新会員候補6人を総理が任命拒否したことに関連して、一議員のツイッター記事の一部分より。(10月6日)
「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」と
文化協会からのお知らせ
・「ふるさと探訪」のお知らせ
 11月6日(金)9:00〜14:45(雨天決行)
 天津神社➜奴奈川姫神社➜糸魚川ジオパル➜旧高野写真館➜キターレ➜加賀の井酒造
 申込み:10月12日〜10月16日
・芸術・文化イベントカレンダー

 林檎食む ああ旨かった 牛やまけた ピッコロピッコロ 風の香にかも   学而

2020年09月30日

知行合一

知行合一 (ちこうごういつ)
知行合一は、中国の明(1368年〜1644年、室町時代〜安土桃山時代)のときに、王陽明がおこした学問である陽明学の命題のひとつで、王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じである。と“知行合一”を説きました。
吉田松陰や高杉晋作、西郷隆盛なども陽明学の影響を受け、革命運動、倒幕運動へと進んでいきました。
論語の為政第二にある「子曰わく、先ず行う、其の言(ことば)は而る後に之に従う」が元になっています。 ➜山本五十六の言葉の「してみせて、云って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人 
 は育たじ」も言い替えたのではと云われています。