2021年03月28日

子曰。苗而不秀者有矣

【読み下し】
子日(しのたま)わく、苗(なえ)にして秀(ひい)でざる者有(ものあ)るかな。秀(ひい)でて実(みの)らざる者有(ものあ)るかな。
【現代語訳】
孔子云う、「やっと芽が出たのに、穂にならぬものがある。せっかく穂が出たのに、実らぬものがある」と。

【解 説】
・顔回を惜しんでいわれた言葉。学問よりいえば秀でて実ったものであるが、若くして逝っ 
 たのだから未だ実らざるものともいえる。健康に注意し長生きしてこそ世の中のために役
 立たせねばならぬ。(ポケット論語昭和41年発行 藤原楚水より)
・十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人。宮崎市定(論語の新研究 昭和49年発行より)
・学問を志す者は怠けず怠らず努力して休まなければ、一国の君主を助けて仁政を施し、人 
 民を救うことができる。中途でやめてしまうのは残念なことだ。(渋沢栄一)
 教訓➜成長し続け長生きしてこそ本物になれる!

2021年02月15日

子日わく、譬えば山を

【読み下し】
子(こ)日(ひ)わく、譬え(たとえ)ば山(やま)を為る(なる)が如(ごと)し。未だ(いまだ)一簣(いっき)を成さずして(なさずして)、止む(やむ)は吾(わ)が止む(やむ)なり。譬(たと)えば地(ち)を平(たいら)かにするが如(ごと)し。一簣(いっき)を覆(くつがえ)すと雖(いえど)も、進(すす)むは吾(わ)が往(い)くなり。
【現代語訳】
「人の一生は、喩えてみれば山を築いたり、地面をならしたりするようなものだ。あと一簣(ひともっこ)で山が完成するのに、そこで止めてしまえば仕事は未完成で終わる。これは誰のせいでもない、自分が投げ出したからである。又、地ならしをするのに、あと一簣入れただけで地面がならされるのは、他でもない、諦めずに最後迄やり遂げたからである」と。
【解説】
学問修養についての言葉である。止めてしまう者には私も止めよう。進む者には私も進もう。
・ことわざ:九仞の功を一簣に虧く(きゅうじんのこうをいっきにかく)  
      九仞=仞は古代中国での単位で、九で表現して「とても高い」
・四字熟語:九仞之功(きゅじんのこう)
➜長い間の努力も最後のわずかなところでやめてしまえば無駄になることのたとえ。「九仞」は非常に高い、「一簣」は一杯のもっこの意。
高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土を虧く(欠く)と完成しないとの意から「九仞之功」。

教訓➜進むも、停滞するもすべて自分次第!

2021年01月10日

子曰わく、吾衛より魯に

 子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)衛(えい)より魯(ろ)に反(かえ)りて、然(しか)る後(のち)に楽(がく)正(ただ)しく、雅頌(がしょう)各〻(おのおの)其(そ)の所(ところ)を得(え)たり。
〔 通釈 〕
孔子云う、「私が衛から魯に帰国して以来、乱れていた音律が正調になり、朝廷で歌われる雅や宗廟(そうびょう)で歌われる頌(しょう)が、本来の演奏に戻った」と。
宗廟:先祖の位牌を置いてあるところ
〔解説〕
孔子が魯国に帰ってきたのは68才ころ。それ以後、若干の暇が出来たので、乱れていた音楽を正す事業に就き、元通りの正しい姿にすることが出来た。       (諸橋轍次)

教訓➜乱れたものは正す

2020年12月28日

令和2年12月26日

令和2年12月26日(土)
仮名論語P.118
〔 読み下し 〕
子(し) 、九夷(きゅうい)に居(お)らんと欲(ほっ)す。或(ある)ひと日(い)わく、陋(いや)しきこと之(これ)を如何(いかん)せん。子日(しのたま)わく、君子之(くんしこれ)に居(お)らば、何(なん)の陋(いや)しきか之有(これあ)らん。
〔 通釈 〕
孔子がある時、東方の夷(えびす)の国に移住してみたいと云った。これを聞いたある人が、「夷の国と云えば、未開でむさ苦しい所と聞いておりますが、これをどうなさいますか?」と問うた。これに対して孔子は、「君子が行って住むようになれば、周囲の人もこれに感化されて風俗は自然に良くなるものだ。何のむさ苦しいことなどあろうか」と云った。
「九夷」とは、東方の異民族のことであり、九種類あったので「九夷」という。
九夷に倭人(日本)も加えている説もある。
➜道の行われないのを嘆いて九夷に住みたいといった(伊與田覺)
➜中国で道が行われないのに、九夷に行って行われるのは可笑しい。(武者小路実篤)
➜君子=孔子がみずからそこに住む以上むさくるしい筈はない(諸橋轍次)
➜倭国(日本)では神武天皇が建国(紀元前660年)して100年余り『君子を尊ぶ   
 こと天の如く、君子を敬うこと神の如し。実に中国の及ばざる所なり(伊藤仁斎)
➜孔子は日本に来たかった(吉川幸次郎)
 ・ことわざ=住めば都

令和2年12月19日

令和2年12月19日(土)
仮名論語テキストP.117

子貢日(しこうい)わく、斯(ここ)に美玉有(びぎょくあ)り。匱(ひつ)に韞(おさ)めて諸(これ)を蔵(ぞう)せんか、善賈(ぜんこ)を求(もと)めて諸(これ)を沽(う)らんか。子日(しのたま)わく、之(これ)を沽(う)らんかな、之(これ)を沽(う)らんかな。我(われ)は賈(こ)を待(ま)つ者(もの)なり。

賢明な君主を善賈(ぜんこ=善い商人)に喩えての問い掛けです。
子貢が尋ねる・・
「先生は美しい宝石(孔子)を金庫に仕舞い込んで置きますか? それとも値打ちのわかる商人(明君)に売り出しますか?」
※「先生は仕官の道を求めないのですか?」って問い掛けです。
孔子が答えます。
「もちろん売るさ。 私は目の利く商人を待っているのだ」
※「自分から求めるのではなく、私の価値を理解出来る明君に、求められてこその仕官の道だ!」(渋沢栄一:衒ひ=ひけらかひ)
孔子が求めに応じて、魯の定公(魯の第26代君主)に仕えたのは、彼が51才の時でした。

・沽之哉。沽之哉:これを売らんかな。売るだろう
         売った方がよい。売るさ。
・匱(ひつ) :箱  ・韞(おさ) :おさめる 蔵  ・善賈(ぜんこ):良い商人

・「沽」の付く慣用句
 沽券に関わる:こけんにかかわる
 意 味:品位や体面にさしさわることをいう。「沽券」は、土地や家の売買契約の証文の
こと。転じて、体面の意。